7.詐欺まがいの治療(2)育てられつつある私

 

 

この話は臨床例そのものではありません。

 

元君の臨床例に関して指導側である私について気づきを深めるために 「心身セラピー(心身を分離しない体験的セラピー)」を行った流れの記録です。

心身セラピーのみならず心理セラピーも受けたことのない人にとっては何をやっているのかよく分からないと思います。

要は、起きていること、現在進行形の現象には意味や価値があるとし、それを拾い上げることにあります。

体の動き、身体感覚、生じるイメージ、夢、内的な言葉、対人関係などに起きていることの質をあたかも拡大鏡で見るような手法によって自覚を深めます。

適当に解説(≫)を入れましたので参考にして下さい。



■ 劇的効果故の私への依存?

その後、元君一家は遠方に引っ越しました。

更に時間が経ち、ある時期に元君のお母様(以後Yさん)は
毎月一回開催していました「気づきの講座」に参加するために
はるばる六時間以上かけて東京までやって来ました。

彼女のプロセスは時折深い流れを見せ、
心の奥に横たわっている葛藤が表面化して
涙と共に癒されたように思えました。

しかし最後の段階で「劇的なものがなかったと」
そう言われて私は拍子抜けしてしまい、考え込んだ。


これは元君のアトピー性皮膚炎の臨床時の展開があまりに劇的でしたから、
劇的効果ゆえの私への依存が起きたのではないかとそう思いました。

私には故意に劇的なシーンを引き起こそうとする気持ちは
ありません。

しかし同時にもちろん問題改善の手伝いをしたい気持ちは変わりません。

患者やクライアントの側からしたらとにかく早くて効果が
あることを望んでいることも分かっています。

しかし救済側のみに力を見ていたのでは自己信頼は深まりません。

『 本当に大きな力は自分の中に隠れている 』

『 自分の中に答えがある 』

大げさな話しになりますが、このことへの無自覚が健康産業の過熱化、
現代の医療費、保険料の高騰の原因だと思います。

だから私はそれが身体、メンタル、そのどちらの問題であろうと、

『私が従うべきエネルギーを本人の中から見つけ出して可能な限り従うこと』

それが常に私の道筋であり理想と考えています。



現実に元君のアトピー性皮膚炎を根本的に治したのが何であったかというと、
意志以前の働き、彼の中の自然治癒力、変化し続けようとする働きです。

そこを見直さないことには私達が抱えている不安は根本的に解決しないでしょう。
死人に声をかけても摩っても反応はありません。生きていないと反応しないのです。

理解すべきは生きている者同志が反応、感応しあって
起こしている力と共に、各自の根本的な回復力です。

今回は、それを主役にして問題点を私に向け、いくつかの再現劇をやってみました。



■    元君の立場で心身に何が起きるか?

まず、私は元君の家で指導を行った時を思い出し
三人が座ったのと同じように場所をつくりました。

 

既に心の中にある「場」となってしまった過去形の場を私は一つの夢、生きているイメージとして扱うことがあります。それは単純に現実に存在するAさんとBさんとCさんを想定してその関係性を位置関係として配置させても、それなりの問題解決への力、リアル感を持った空間になります。こういった例はいくつもあり今は自分の中では当たり前な作業になってしまったので一々メモも取りません。



そして自分が座った位置で
「元(はじめ)君のアトピーは、お母さんがさっきから言っているように
汚いことばで叱っているからそれが肌に出ているんだ」

そう言った後に彼の位置に移動して
自分が何を感じるかを確かめてみました。

しかし、今ひとつはっきりした感覚が得られません。
そこで自分の声を録音してそれを聴いてみました。

こうしてみると若干感じるものがあるのです。
しかし自分が感覚していることが言葉になりません。

日頃、勉強仲間では一人の役に対して代理を立ててやっています。
ところがその状況とテープの音では大変温度差があるのです。

人が声を発して話すのはテープと違って
なんらかのエネルギーが作用するのではないでしょうか?

 

自分が情報の受信側になって心と体に何が起きるかをチェックする作業です。
この手の作業は一人でやるよりサポート者がある方がやりやすいです。
ただ、誤解の無いように願いたいのは感情の吐き出しが目的ではないということ。



次に、この話を全く知らないD氏に私の代理になってもらって
先の台詞を喋ってもらいました。

するとあることがハッキリしてきました。

私の身体が空白になり更には思考も停止してポカーンとしてしまうのです。

何度か繰り返してみましたが同じでした。

そこで今度は母親の位置に行って同様のことを確かめました。

するとなんと!またも似たような状態が訪れました。
D氏にも確かめてもらいましたら心身共にほぼ同じことが起きていました。

このムードを表現する言葉を選ぶと
「止まる」「流れが止まる」というのがピッタシです。


どうやらあの時の私の言葉は、
母と子どもの間にあって止めようにも止まらなかった何らかのエネルギーの流れを止める力を持っていたようです。

元君のアトピーが進行していく
元にあった流れを私は止めてしまったようです。

きっとアトピーは二次的なことであり
その手前に心身に影響するストレスエネルギーが流れていたのでしょう。

 

あの臨床の時、私は強い断言的な言い方をしたり、如何にも正義の味方的な格好良い役を演じているというより淡々として話したのです。でも、それがどんな力を持っていたかがこの作業で実感できました。



ここまでの作業は無駄ではないと考えましたが、
このYさんが私に対して依存心を持ったかどうかは分かりません。

「ではどうすれば良かったのか?」と、ぼんやり心を巡らせていると、

「ごめんなさい」という言葉が口からと言うよりも体から出てきました。

 

こういうことも心身セラピーの中ではよく起きます。通常私達は言語とは思考の言語化として理解しがちです。しかしそうとは限らず体感覚としての言葉も確実に存在します。

 


■ 言の葉、それ自体が持つ力

そこでセラピストの立場にいるD氏に頼んで
母親役の私に「ごめんなさい」を言ってもらいました。

あまり気を込めないできわめて単純な普通の言い方で言ってもらいました。
(これらは言葉に対して心身の微細な変化を拾い上げ、更にそれをふるいにかけるための作業です)

すると、なんと!「今、身体が変わった」と言うではありませんか。

D氏はキョトンとしながら
「言ったら首と顎が痛かったのが取れてしまった」と。

おかげで私の方が何を感じていたかを拾うのを逃してしまった。


「言葉の中にはただその言葉、それ自体が心身を変えてしまうような
言葉があるのではないか?」そのような空想がよぎりました。

だってこの作業を手伝ってもらったその人は臨床の状況について
ごく簡単に説明はしたものの強い感情の変化などには理解はありませんし、

特に台詞指導はしていません。

D氏に何度か同じ事を繰り返してもらっている内に

「いくら子供のためのこととはいえ、
悪役みたいな嫌な役をやらせてごめんなさい」と

彼女のポジションに座ったまま、セラピスト側としての私の言葉が出てきました。

 

素朴に考えれば、私は子どもに対して母親を悪とする"正義の味方"のような役を演じたのです。しかし、たとえ悪役であってもどうしてそのエネルギーが存在するのかは彼女が悪だからとは決めつけられません。彼女がその"役回り"を演じさせられているという見方も自然なのです。だから、わざわざこういう回りくどい作業をやらなくても「嫌な役でごめんね」と言えば、それでよかったのでしょう。


 しかし、ここで私がお伝えしたいのは様々な体感覚、意識以前の感覚が調和へ向かおうとしていることをお伝えしたいのです。この体験を通すことは例えば教義を何度も読み返して自分に言い聞かせるのとは違いがあるのです。




■ 感応する身体「体が卵に

そこで自分の本来のセラピストの立場に戻り
この言葉を母親に伝えてみましたら、涙が込み上げてきました。

こういった感情を現在進行形の中で、
つまりあの臨床の場で拾い上げるのは難しいです。

でも心身の奥では感じてはいたのでしょうね。


ところでD氏がこの場所(母親側)に座ってみたら体、
特に肩が狭まって緊張してくると言う。

そこで私はもう一度母親の席に位置してみました。

そうです。
体感覚的には肩が縮まり前屈みになる動作感覚が生じます。

私はその動きに随ってみました。

この動きを極まらせて、それを起こさせている
元のエネルギーを明確化するために極まらせるためです。

 

何度試してもこういう現象は起きます。
例えば加害者と被害者という二人の関係があったとします。その関係性をポジション化するとそこにそれぞれと複合のエネルギーを象徴する場が出来るのです。それは体で感じることが出来るものでしてシンキングではありません。立場を代わるとそれなりの感覚が生じて来ます。またそのポジションに立つと腕が歴然と軽くなると言う現象がある時、場を見ている人が10人居れば大概10人ほぼ同様のことを感じます。



私はどんどん小さくなってついに卵になってしまいました。

まるで卵の中のひな鳥のようです。

とにかく分析解釈などしないでこのエネルギーを私は受け入れました。

しばらくして起き上がってみると、
あれほど偏り歪みきった体勢をとっていたのに
心身がスッキリして気が通っていました。


この体験から私が無自覚であったことが見えてきました。
あの臨床をやっていた頃はまだ整体のみを行っていました。

たとえ好結果が得られたとしても人様のメンタルに関わる者としては
卵の中の雛のような存在でしかなかったのかもしれません。

雛からあの時の私を眺めると
「もっと温かさが欲しいな」そういう気持ちになります。


またこれは現在の私にも必要なことだから起きた展開だと思いました。

雛が育つには温かさが不可欠。

今の私は仕事方針の改善を模索しています。

0(ゼロは卵の形)から自分を育て直す温かい心持ちを
自らの中に見つけねばならないようです。

仏教でいう慈悲とか慈愛とでもいうものかもしれない。

男性であり心に傷を持つ者でもある私にとってはちとノルマが高い。^/^


雛が一つの象徴とするなら温かさは何の象徴だろう。

私自身が『生命の働きにどのように育てられつつあるか』
その小さな自分を自覚すべきだった。

「 嫌な役をさせてごめんなさい。

改善の要因は子供を愛するあなたの優しさです。

ありがとう。私も癒されました。

元君はもう一人の私でもありました。」

このように伝えるべきだった。かな…。

本当に大きな力は自分の中に隠れている
本当に大きな力は自分の中に隠れている