○仕事上のスタンスなど
ここには仕事に関わるスタンス的なことを書いてみました
○「 体というワタシ 」の立場も大切に
当方は特定の学術団体、精神世界グループ、宗教団体、療術団体、思想教義活動に属すものではありません。
しかし、基本的に相談者がこれらに関係をお持ちだとしても指導上ではまず尊重したいと考えております。
ただ、私の目の前の現実として、指導方針と来室者の希望とのギャップなどであまりに対応の限界を感じたときには私にはお手伝い出来そうにないことを率直に申し上げることもあります。
でも、それとて最終的な判断はあなた御自身に委ねたいと思います。
その際、あなたの「 体というワタシ 」という立場も尊重したいとお考えになるなら、積極的にお手伝いさせていただきたいと考えております。
その立場はあなたに対して大変寛容で、あなたにとって大きな価値を持っているはずだからです。
○何が自然か
心身の問題に関しましては「心身」この用語はあまりに抽象的なので社会の多くの分野と重なります。
身体的療術や健康法、心理学、心理療法、本屋のカテゴリーで言う精神世界、宗教等々。
また、例えば心理学にしましてもメジャーなものからそうでないものまで、その数はかなりなものです。
他のカテゴリーまで含めると人の数ほどあるのです。
そして、人が抱える問題もやはり人の数ほど…ということになります。
したがって、方法自体を限定するのは可能性を制限することにつながりかねません。
そういったことともありまして私は「何が自然か」だけを大切にしたいと考えています。
○公平と尊重が基本
しかし「大根が『体にいい』人は大根を、人参が『体にいい』人は人参を」の公平原則に従ってもおります。
もしもあなたが特定の健康法、療術、宗教や思想等をお持ちだとしても、それを頭から否定したりする立場にはないと考えております。
ただし、体の問題はこちらの指導と相談者の流儀がバッティングする場合もございます。
その場合はちゃんと説明した上でどうするかをお決めいただくことになるかと思います。
会員の中には家系がお医者様の方がいらして子供さんの不具合の折りにはお母様を大変悩ませてしまったこともありました。
でも、大きな問題が生じたこともなく、一時期はお父様にもいらしていただいたこともありました。
長年飲んでいた薬を止めていただいたことが効果を上げ、大きなターニングポイントになった例がいくつもあります。
また、別ケースではその方が関わっている宗教めいたグループがどう客観的に考えてみても相談者をあまりにも心理混乱させているとしか思えない。
そういうことがありまして。縁を切るようにおすすめしたこともあるにはあります。
これはどうも本人がそのような決断をしかねていたという状況がありましたのでそのグループとは縁を切ったことについて苦情は出ませんでした。
もちろんこういったことにはその本人様の内面の矛盾もあるように思われます。慎重でなくてはならない問題と考えます。
○ランクの大切さ //悩みのケース//
私が悩むのはこちらが敢えてランクを誇示する必要がありそうなケースです。
ある壮年女性
確か華道か何かの先生だったと思います。
長年お世話になっているかかりつけ医者に「今回だけは数値がかなり上がっている。もうお腹を切った方がよいかもしれん。」と言われました。
私に相談されたのが手術まであと数日しかない日のことでした。
肩、腰が痛いのでということで来て整体を終えてから、
「実は明後日、手術を予定しています。」とおっしゃる。
色々と時間をかけて聴いた上で、私は手術を止めるように言いました。
懇意にしているが故に医者に対して言いにくさがあるのでしょうけど、お止めになった方が良いですと何度も申し上げました。
結局、納得して「分かりました」と帰って行かれた。
しかし、結局その方は開腹されたのです。
開けてみたら、特に問題は無かったとか…。
ここに横たわっている問題は「権威と関係性のテーマ」です。
その方はいわゆる面倒見が良くてお弟子さんたちのことを綿密にお世話するのです。
しかし、義理を受けると大変それを大げさに感じてしまう。
逆に言うと面倒も見るが義理を大事にしてくれと暗黙の言葉を持っているタイプだということですね。
だから、何十年もの付き合いの顔見知りドクターに言われて断り切れなかったのでしょう。
私の推察ではそのドクターも同じタイプの権威性を重視する人のようでした。
お二人が似ているのですね。
だから、そこに漠として存在する権威性に対する感受性が邪魔をしてありきたりに素直にものが言えなくなってしまっているのです。
そういう葛藤問題がなければ何年も疎遠にしていて突然私の所へやって来たりはしなかったように思います。
○苦手意識
さて、ここではそのお二人のことを述べるよりは私の課題に焦点を合わせるべきかもしれない。
圧倒的で面倒見が良く、断言的な態度、その相談者が思考を停止させ、ただただ柔順に従ってしまいたくなるような超権威、私がもしもそれを演じることが出来たら彼女は引き留まったのでしょうか。
悩むところです。
そして忘れられがちなのは「体というワタシ」の立場です。
私が権威性を拒んでいたためにその体は切腹を強いられたのだとしたら、そこに居たのは何とも情けない私です。
体というのは(ここでいう体はそれを支えているイノチの働きを含んでいると解釈して欲しい)、実はソレは持ち主に対して大変寛容であるという実感を私は持っています。
私たちは「自分のやることは完璧ではなくて体に悪いものを食べたり、過ぎたり飲んだりしている、良くない生活をしている」という居候を自分の中に住まわしているという気持ちを持っています。
簡単に言うと罪を意識することが必要だと思っています。
しかしこれまでの私の経験では「体はあなたに対して大変寛容である」としか言いようがありません。
この人もそれを味わったなら変わっていたかと思うのですが、
よく考えると私がそういう方向を期待したのが間違いなのかもしれない。
私流儀を押しつけすぎた。申し訳ない。
この方の生きる流儀に則してあげて、多少大上段に叱り飛ばしてでも「義理と人情」の物語を演じてみるべきだった。
こういうケースは苦手だ。